キビタキの会について

2018年3月13日

原発事故から7年 〜避難者の声1

2011年3・11の原発事故によって多くの住民がやむなく故郷を離れました。武蔵野市に避難してきた方に、これまでの体験や今思うことを書いていただきました。

子供の成長をかみしめられなかった避難の日々

2011年3月14日、取るものも取り敢えずタクシーで家を飛び出してから今年で7年。あの頃35歳だった私は、気が付けばもう42歳。息子は4歳から11歳に成長した。雀の涙ほどの賠償金しか得られない自主避難者とあって、福島と東京との二重生活となる母子避難を維持するためには、とにかくお金がかかる。最初の2年は、自宅にかけた地震保険から支払われた保険金でなんとか食い繋いだ。それも底をついた頃、私は6年のブランクを越えて働きに出なければならならなくなった。

まだ震災のショックで精神的に不安定な息子を、公立幼稚園とあちこちの知人、ボランティアさん、民間の一時保育、時には福島の母に来てもらい、日々やりくりしながら必死で働いた。強制避難ではないということで、受けられる行政サービスが制限されていたためだ。せっかくのいい時期に、子供の成長をかみしめる余裕なんて全くなかったし、ただ一日一日を生きていくことで精一杯といった毎日だった。

3年前、息子が小学2年生の頃には、いわゆる震災離婚に至った。その後は更に大変になり、身体もメンタルも壊してしまい、本末転倒と思いながらも、もういっそ人生を投げ出したくなった。そんな最中、自主避難者への住宅支援が打ち切りとなり、更に絶望。いざという時、今まで信じてきた政府は、弱者をいとも簡単に切り捨てると知った。

だけど今、私と息子は沢山の方達に出会い、支えられ、いまここに生きている。幸せと感じられる時も増えた。私達と繋がって下さった方々に、本当に本当に心から感謝している。

原発事故には、大切にしたかった、私と息子のそれまで思い描いていたたった一度の人生の夢を破壊され、台無しにされた。もうこれ以上、私たちのような悲惨な家族を増やしては欲しくない。今はそれを切に願っている。

(郡山市から避難)